分かっている筈の(?)「推定無罪」
来年5月実施の裁判員制度、我が家にも、新聞折込でその制度開始を告げる政府広報が入ってきました。裁判員候補者名簿に登録された人(裁判員になる可能性のある人)には、今月末から、裁判員候補者名簿に登録されましたよ、との通知が最高裁判所名の封書で届き、そこには、事情を尋ねる調査票も同封されているそうです。
私も少し前から裁判に関心を持ち、それについて時々考えるようになりましたが、その中で、自分では分かっているつもりの「推定無罪」の原則が、ホントに分かっているのか、少し怪しくなってきました。
「推定無罪」とは簡単に言うと、疑わしきは罰せず、ということですね。これは、冤罪防止のために、絶対守らなければならない原則であり、そんなこと当たり前、との声が、皆さんからも聞こえて来るような気がします。
しかし、私たちは一方で、非常に危うい基盤に立っているように感じます。この前フジテレビ(だったと思う)でも、殺人などの凶悪事件について、一般市民は、自分が被害者になる可能性は考えるが、加害者になる可能性をあまり考えないのではないか、ということが放映されていました。自分が、そんな凶悪事件の加害者になるわけないじゃん、とね?
これは、ちょっと怖いことでもあります。上のように考えた瞬間、私たちの容疑者を見る目は厳しくなり、冤罪の可能性をあまり考えなくなるのではないか? 誤解を恐れずに言えば、悲惨な事件に巻き込まれた被害者に感情移入するのは簡単だが、容疑者には感情移入どころか、最初から胡散臭く感じ、いろいろな証拠をも客観的に見るのではなく、容疑者の犯罪を裏付けるものとして、見ようとするのではないか?との懸念が生じます。少なくとも私自身はそのようですね。
犯罪を裏付ける証拠としては、その証拠能力が今ひとつ完全ではない場合でも、言い換えれば、ほとんどクロであれば、有罪にしようという意識が働くような気がしてなりません。これって、推定無罪に違反するでしょう?
もちろん、刑法は、犯罪発生の抑止力として、機能させねばなりません。犯罪者を野に放つなんてトンでもないのは、自明のことです。しかし、最悪の事態は、冤罪により罪も無い人を裁くことであり、いえ、それだけにとどまらず、本当の犯人を野に放ったままになるため、再犯の可能性も高まることです。
この二重の意味を持つ冤罪を防ぐための方法が、「推定無罪」なんですね。多分これしか方法はないと思われます。
とはいえ、この議論を深めていこうとすると、かなり込みいったことになりそうで、今の私に手に負えるとも思いません。そのため、ここでは、上記テレビの中で紹介された裁判員制度プロモーションビデオの私なりの解釈(?)を頼りにしたい、と考えています。
つまり、裁判員個人が、有罪か無罪か確信が持てない、という事態があったとすると、その事態そのものが、「推定無罪」に該当するということ、もう少し詳しく言うと、分からない部分について説明を受けても、自分で良く考えてみても、あるいは、議論を尽くしても、なおかつ、有罪か無罪かを決めかねたら、それは即ち「推定無罪」つまり無罪だという結論になることを意味しています。
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